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書籍

真実の危険

解読者ファンディニンルー

変わり者のモラの書記たちは、知識こそがオブリビオンのすべての領域で最も重要な概念だと信じている。彼らの思い込みは誤りである。真実こそが求めるに値する唯一の特性である。思い込みや錯誤、誤情報は知識を汚してしまう。知識は風に舞うインクのように空をさまよう思いつきと同じで、何の実体も持っていない。真実だけが恒常的である。真実は小川の流れを定め、水路の形状を変化させる岩だ。

これほどに巨大で揺るぎなきものを理解するのは容易なことではない。実際に小川の中の岩を観察したことはあるだろうか? 水は岩にしがみつき、岩全体の形を感じ取ろうとするが、常に押し流されてしまう。我々もまた、自らが手に入れようと務める真実の射程を理解することは決してない。我々は探し求める真実によって永久に変化させられるが、誰もが我々の小川の中の真実について、暗い影のような理解しか有していない。

我々に理解しうる真実はこれが限界だ。真実には危険な性質がある。真実には否定的な側面が秘められており、最も安定したデイドラの精神にさえ理解できないような含みがある。ハルメアス・モラだけが真実と運命を支配し、それらに関する領域を支配できる。

真実の発見はせいぜい、調査されている主題の性質に関する仮説の死を保証する程度だ。集められた知識のすべては岩に叩きつけられ、流れにさらわれる。仮説や理論の崩壊はしばしば、劇的かつ根本的な理解の変化を帰結する。この変化は最初に研究されていた主題に限定されるものではない。むしろ、変化は急速に拡大し、以前に理解されていたすべての物事を転覆させる。真実は一直線に進むものではなく、有限でもない。発見されたどんな真実も、我々が現実を知覚する方法に持続的な影響を残す。

例えば、あるインペリアルが平坦で木のない農地で育ったとする。実際、農場を取り巻く3つの村の中に、木は1本しか生えていない。このインペリアルは当然老齢に達しても、世界全体に木は1本しか存在しないという知識を持ったままだろう。このインペリアルが初めて森を見る時どのような体験をするか、想像できるだろうか。知識と真実の差異がわかるだろう。真実がどれほどの重みを抱えているか、感じるだろうか?

この例はごく小さな真実を表すにすぎない。より大きな真実の理解がどのような影響をもたらすか考えてもらいたい。変化のみならず、持続的な害を引き起こすほど巨大な真実は存在しうるのだろうか? 真実は怪我や死を導きうるか? 当然導きうる! 歴史を見ればよい! 真実や秘密、あらゆる種類の発見は数えきれないほどの死を生み出してきた。定命の者は秘密のために殺し合いをする。彼らはムンダスの暗い隅に至るまで、互いを追い回す。

これが定命の者の真実を解明することに対する報いであるとしたら、デイドラの真実を発見することは何を意味するのだろうか? 遥かに危険なのは明らかである。定命の者とは違い、デイドラには完璧な復讐を計画するための無限の時間がある。彼らは侵入者や目ざわりな定命の者を始末するための陰謀を練っている。デイドラ公はなおのこと徹底的である。ハルメアス・モラは特に、真実を管理している。モラは自分が許容できると判断したものだけを我々に知覚させている。モラの秘密は我々が理解できるどころか、生き延びられる真実の射程を遥かに超えているのだ。

我々が問題にしている真実の規模を示す例を一つ挙げよう。「既知」はあまりにも強大な真理であり、その巨大さにさらされると狂気に陥る。だからといって、「既知」がある特別な種類の真実であるとか、そもそもそれ自体が一つの真実であるわけではない。私が聞いた噂によれば、一部の「既知」は本の姿で現れ、そのページは歴史から消え去った過去の出来事を記録しているという。その他の「既知」は大昔に失われた領域の獣や、誰も聞いたことのない最高のシェフによる料理だ。「既知」の厳密な性質や、なぜ知られているのか、「既知」の間にどのような共通点があるのか、といったことは不明だが、それらの影響は詳細に記録されている。「既知」にさらされた定命の者は、通常即座に狂気に陥る。「既知」の影響力と、それが秘めている真実の重みは、定命の者の精神には抱えきれないほど大きいのである。

それゆえ、知識を集めることと真実を理解することのどちらがより偉大な目標か、という問いに応えるならば、真実に軍配が上がるだろう。といっても、真実を探究するすべての者が、自らの企図の重みを理解しているわけでも、自らが発見するものを理解する覚悟ができているわけでもない。我々の大部分は小川に流れる水のように、自らの生を漂いつつ両手を広げ、微かに岩に触れながらもすぐ流され、通りすぎるだけである。

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