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書籍

別荘の皇帝

グウィリム大学歴史学者、ヴァレンカ・アルヴィーナ著

レマン王朝の偉大なる王たちに関する書は数多く記されている。しかし、レマン一世、レマン二世、レマン三世の間、第二帝国は輝かしさに欠ける指導者たちの治世に耐えてきた。たとえば、皇帝ブラゾラス・ドールだ。国政に興味を持たなかったことでよく知られるブラゾラス・ドールだが、それにもかかわらず34年間も皇位に就いていた。

ブラゾラス・ドールの玉座に対する準備不足は彼が生まれた時の環境に端を発する。彼はレマン二世と、アイリーニャ・ドールという平民出身の召使との間にできた庶子である。彼女は新たに戴冠した皇帝であるレマン二世が、スキングラードへ滞在した時に見初められたのだった。レマン二世はアイリーニャを気に入ってはいたものの、ルビーの玉座に見合う結婚相手を探さなければならなかった。間もなく彼は子供をアイリーニャに任せ、二人のために快適な別荘を用意した。

力みなぎる好青年のブラゾラスは、有名な先祖であるレマン一世にとてもよく似ていたが、偉大な男の野心や洞察力はほとんど持ち合わせていなかった。レマン二世が間を置かずに嫡出子を持つことが想定されていたため、ブラゾラスは皇帝の末裔ではなく、コロヴィアの小貴族としての生活になじんでいた。彼は自分のブドウ園の世話をし、狩りをして、友を楽しませながら日々を過ごしていた。

その後、第一紀2843年にレマン二世が戦いに倒れ、ブラゾラスがルビーの玉座に就くことになった。暗澹とした気持ちで玉座を引き継いだこの若者は、皇帝ブラゾラス・ドールとして母方の姓を維持することを選んだ。しばらくの間、彼はシロディールで新たな責任を果たそうと全力を尽くした。父のモロウウィンドへの進軍を再開し、勇敢に戦いさえした。だが、白金の塔における行政と外交の責務が、それを得意としない彼に重く伸し掛かった。

シロディールでみじめな思いをしたブラゾラスは、すぐに愛するコロヴィアの田園地帯に引きこもるようになり、首都から離れて過ごす時間が着実に増えていった。彼は自分が行えることをすべて最高顧問シドリ・アシャックに委任し、自身はスキングラード西の丘陵地帯にある豪華な邸宅、ヴィラ・ドリアの建築に精を出した。ブラゾラスが白金の塔に戻る頻度は徐々に減少し、ついには戻る手間をかけることすらしなくなった。

皇帝ブラゾラス統治時代、最後の20年間はヴィラ・ドリアが宮廷の役割を果たしたが、ここで実際に公務が行われることはほとんどなかった。それどころか、ヴィラ・ドリアは娯楽と気晴らしの場所だった。皇帝が遊びと酒宴(包み隠さずに言えば、これらの多くがみだらな乱痴気騒ぎになった)に時間を費やす間、最高顧問シドリ・アシャックが静かに帝国を統治した。

ブラゾラス・ドールは第一紀2877年に突如として死亡するが、その時の彼はまだ62歳で、いたって健康であった。中には殺害を疑う者もいた。シドリ・アシャックの増大する権力を快く思わない一派が、新たに精力的な皇帝を玉座に据えることで最高顧問を無力にする決意をしたという噂が流れた。レマン二世は弱冠14歳であったが、すぐに宮廷をシロディールに戻し、自らの名において権力を行使した。ブラゾラス・ドールが愛したヴィラ・ドリアは打ち捨てられ、後にはアカヴィリの最高顧問のもとで廃墟と化した。

さて、歴史家たる私は彼をどう判断するか。彼より成果の少ない皇帝はほとんどいないが、それでも彼の統治期間に帝国は繁栄した。意外にも、彼よりも有能な皇帝の多くについて、必ずしも同じことが言えるわけではない。

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