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グウィリム大学エルセリック史学部長補佐、トリラム・ヘラドレン著
第二紀324年に最高顧問ヴェルシデュ・シャイエが倒れ、さらにその後継者サヴリエン・チョラックが第二紀430年に倒れると、タムリエル全土が大混乱に陥った。王を僭称する者や残忍な征服者が雨後の筍のように出没し、大陸の支配権の苦痛に満ちた再編成が引き起こされた。
ガードナー王朝の臣下として、モーナード家の公爵は通常ならばウェイレスト王国に忠誠を誓う義務があった。しかしシストレス諸島と本土の間の情報交換は、空位時代の初期にまだ不安定だった。外交使節団はレッドガードの海賊団やシーエルフの強盗によって頻繁に奇襲を受けた。伝令が到着しても、モーナード家はしばしばそれを無視して、海上で失われた、あるいはエルフのスパイに妨害されたと主張した。この不安定な外交のおかげで、モーナード家は諸島に対する全面的な覇権を確立できた。ただし唯一の例外は、デュフォート家の領地であった。
デュフォート家の男爵たちはハイ・アイル中に小さいながらも価値の高い領地を所有しており、彼らは機会が訪れるごとにそれを利用してモーナードの計画を妨害した。デュフォートはモーナードの邪魔をする機会を決して逃さなかった――特にそうすることでガードナー王の宮廷から信用を勝ち取れる場合には。このやむことなき牽制は数百年にもわたる陰謀や暗殺、誘拐の駆け引きを巻き起こし、少なくとも一度は海上の小戦闘でデュフォートの世継ぎ候補の命が奪われた。ついに第二紀478年、ルフェ・モーナード公爵は捏造文書と強制された証言を大量に用意し、王家に対する反乱を扇動した罪でデュフォート家の土地の3分の1を没収し、デュフォートの指導者をアメノスに追放した。ガードナー王家の者たちはこの反乱に疑念を抱いたが、彼ら自身が勢力を増すカムローンとの不和に悩まされていたため、この件は未解決のまま放置された。
モーナード家は諸島の支配を第二紀563年まで維持した。ナハテン風邪が驚異的な速度でこの地域に拡散し、平民と貴族を分け隔てなく葬り去った。輸送港であるシストレス諸島は甚大な被害を受けた。悪化の一途をたどる疫病の波が、次々と押し寄せてきたのである。第二紀565年には、アヴリッペ・モーナード公爵は島全体を封鎖し、何者も諸島に出入りすることは適わぬと宣言した。交易に依存していたシストレスは、完全な欠乏状態に陥った。疫病の勢いが弱まると、今やエメリック王の支配下であったウェイレストはアヴリッペに嫌悪の眼差しを向けた。彼は民を犠牲にして自らの安全と富を守ったからである。復帰しつつあったデュフォートは事態を見守り、待った。
エメリックの非難に怯えたアヴリッペ・モーナードは、自らの地位を守るため他の貴族名家に頼った。第二紀566年にショーンヘルムのランセル王がウェイレストに戦争を宣言した時、アヴリッペは臣下としての義務を放棄し、エメリックの敵側に付いた。エメリックは意外な同盟者たちとの外交的関係を利用して、マルクワステン・ムーアの戦いでランセルに圧勝した。本土での問題が落ち着くと、エメリックはシストレスに目を向けた。
上級王は速やかに裁きを下した。エメリックはアヴリッペ公爵の肩書を剥奪してシロディールに追放し、彼は1年後に死去した。さらに、エメリックはモーナード家の領地の3分の2を没収し、それをモーナードの宿敵デュフォート家に与えた。残されたモーナードの土地と財産はアヴリッペの息子レオナードに譲渡された。さらに恥辱の仕上げとして、ウェイレストはデュフォート家をシストレスの統治者に任じた。
今日、諸島はエリア・デュフォート女公爵の統治のもとで栄えている。昔の日々のように、シストレス諸島はすべての者を迎え入れ、タムリエルがその最大の力を発揮できる港として機能している。シストレスは学びの地であり、奥深い伝統と海の冒険、そしてうち続く友好の絆の地である。エルセリックの光り輝く宝石として、タムリエルの未来がここで生み出されるかもしれないのだ!
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