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書籍

シストレスの歴史 第4巻

グウィリム大学エルセリック史学部長補佐、トリラム・ヘラドレン著

友好条約に署名した後、残された全旗海軍の船長と乗組員は、ハイロックとコロヴィア出身の少数の者を除いて、自分たちの国に帰った。後に残った人々の大半は、スロードに対する艦隊の勝利を記念するための記念碑の建造を託された技師や労働者であった。この大型記念碑は完成までに20年を要した。その間に、多くのブレトン労働者がハイ・アイルに家族を連れ、主にゴンファローネ湾の、造船所周辺の村に定住した。ブレトンの影響力は増したものの、この島は帝国の領地に留まった。ベンドゥ・オロ自身がコロヴィアの延長として島を要求したのである。ブレトンとアレッシア帝国の関係は、諸島の未来を不安に陥れた第一紀2305年のハイロック脱退に先立つ数年間に悪化した。

コロヴィア人たちは皇帝の要求にもかかわらずブレトンを追放せず、排除の費用が高くつきすぎるという異議を唱えた。本当は、コロヴィア人たちは時間稼ぎをしていただけだった。自分たちの独立を主張する機会をうかがっていたのである。

信仰と敬虔の軍団がハイロック奪回に失敗したこと、西方の出来事にアレッシア聖職者が介入を続けたことに勇気づけられ、コロヴィアの領地は第一紀2321年、ついに反乱を起こし、正道戦争が始まった。

すべてのシストレス住民にとって大きな安心の種となったのが、戦線はタムリエル本土の海岸線を越えて伸びなかったことである。しかし戦争の費用は、最も裕福なコロヴィア人でさえ手に負えなくなるほど膨れ上がった。ハイロックはドラゴンテール山脈やドルアダッチ、そしてハンマーフェルの不毛の荒野を頼みとして帝国の攻撃を防げたが、コロヴィアの高地は自然の防壁に乏しかった。アレッシア人とコロヴィア人はどちらも、敵に対して物質的な優位を得ようと必死になるあまり、財宝を使い果たしてしまった。第一紀2326年、領地の富は完全に枯渇した。追加資金を確保するため、コロヴィアの王たちは必須ではない領地を売却し始めたが、その中にはシストレス諸島も含まれていた。マルティーヌ・グイマルド女公爵が主導するハイロックの金貨貴族協会が、第一紀2327年に諸島を購入したが、その価格は公開されていない。

グイマルド女公爵は疑いなく、当時最も抜け目のない統治者であった。同時代の人々には冷淡で傲慢と形容されたが(この時代に権力を持った女性に対しては一般的な悪口である)、彼女は結婚と外交ではなく市場によって、すなわち巧妙な貸し出しと密輸、土地の買収、そして過酷なまでの税制によって莫大な富を得た。

シストレス諸島を買収したことで、グイマルド女公爵の宮廷での評判は、彼女自身が期待した以上に高まった。いとこのマルク・グイマルドへの手紙の中で、彼女はこう述べている。「名家たちは大いに喜んでいました――味方も、競争相手も同様に。本当に、まるで一握りの穀粒で、タムリエルのすべてを得たような気分でした!」

グイマルド家はシストレスの所有権を得て、島の自然資源を採掘しようとしたが、諸島の真の価値は文化的なものであることにすぐ気づいた。帝国の統治下にあっても、諸島で栄える労働者の共同体は、言語も文化も慣習も、完全にブレトンのものであった。この人口の動きと、ハイ・アイルやガレン、イフェロンにおけるドルイド遺跡の発見により、ハイロックの人々の想像の中で、シストレスのイメージが確立された。すなわち手つかずのまま残された、ブレトンの歴史の発祥の地というイメージだ。それがブレトンによって占拠され、今やブレトンの所有となったのである。

グイマルドは同時代の他の数人の者と共に、第一紀2328年に公式の就任式のためシストレスを訪れ、ブレトン祖先の故郷にちなんで最大の島に「ハイ・アイル」と名づけた。この名称は現在も使用されている。

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