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グウィリム大学エルセリック史学部長補佐、トリラム・ヘラドレン著
ファイアソング山の最初の噴火から1500年ほど後、スラスのナメクジの民は世界に向けて大いなる疫病を解き放った。第一紀2200年以降の数十年は、タムリエル史上最も悲惨な時代に数えられる。病は超自然的と思えるほどの速度で大陸を駆け巡り、数十万の歪んだ死体を後に残していった。癒し手の記録は腫瘍や脆くなった骨、目や耳からしみ出す粘液、そして人々を狂気に陥れた癒されることのない渇きについて記している。
フラヴィア・レンティヌスやラッサフェルドのイロルリエル、マザジム・アル・ヘガテといった世に知られることなき英雄たちは、命を懸けて治療法を探したが、無駄に終わった。誰も病を止めることはできなかったが、彼らの仕事は人々が長い間恐れていたことを確証した。疫病は自然のものではなく、海からやって来たのであると。それはスラスから来ていた。
第一紀2241年、アンヴィルのコロヴィア船乗り王ベンドゥ・オロは、スラスの罪を罰する意図を高らかに宣言した。彼はアレッシア人たちに権限を嘆願し、それはすぐに受理された。皇帝の祝福を受けたオロは帝国艦隊の男爵提督の肩書を得て、逆襲の艦隊を集め始めた。オロもアレッシア議会の議員も、艦隊が疫病の治療法を発見できるという幻想を抱いてはいなかった。オロの旅路に同行した癒し手の数は少なかった。全旗海軍の意図は明らかに、スラスとその住民の完全な掃討であった。
2年の間に、男爵提督と全旗海軍の創設メンバーたちはシストレス諸島に居を据えた。コロヴィアの技師たちはブレトンとオークの労働者に支えられて、ゴンファローネ湾および現在の全旗の小島に、シストレス造船所を建設する作業を始めた。当然ながら、第一紀2240年には無数の造船所が協力して作業に当たっていた。特に有名なのはアリノールとリベンスパイアーである。だがシストレスの生産活動は規模と量のどちらでも他を圧倒していた。第一紀2249年には、海軍基地とその最初の船団が、スロードに対して戦争を仕掛ける準備を整えた。第一紀2250年代初期の小競り合いは、第一紀2258年、全面戦争に移行した。
ダークエルフ旗艦ホープスファイアーの船長フォルヴス・ネルヴィロの覚え書きには、スロードとの交戦の様子が次のように記されている。
「そこで我々は獣の姿を見た。巨大な肉の塊が、病気のクジラのように表面で煮えたぎり、長い列になった漏斗状の穴から墨が噴き出していた。この緑色の胆汁は水夫も船も等しく溶かしてしまい、我々が火をつけて焼くまで止まらなかった。ナメクジどもは戦争の獣の背にまたがり、ここに記すのがためらわれるほど冒涜的な力を持つ呪文を放った。エルフたちは頭を押さえて叫び、我々が海の獣に乗り込み、剣と銛でスラシアの民を殺すまで回復しなかった」
この海の獣を打ち破る秘訣を解明することが、勝敗を左右する戦法だった。スロードはしばしば波の下から一方的に攻撃してきたからである。これに関しては偉大なる妖術師シラベインの功績があったかもしれない。というのも紛争の間中、彼はアルケインの海上戦闘に力を注いでいたようだからだ。しかし詳しいことは、控えめに言っても不確かである。
海上でいくつかの大きな勝利を収めた後、オロとその大艦隊は第一紀2260年、スラスに対する最終攻撃を仕掛けた。決定的な戦いだったにもかかわらず、直接経験した者による報告は異常なまでに少ない。現在でさえ、全旗艦隊がいかにしてスロードの国を滅ぼしたのか、あるいは、スロードがサンゴの塔を使って自ら滅びたのか、我々には何もわかっていない。シラヌス・ルロのような研究者の主張によれば、この記録の空白は意図されたものであり、大地を丸ごと海に沈める方法は、後世の者にとって危険すぎたのがその理由だということになる。判明しているのは、この出来事を目撃した者は誰もが、多大な衝撃を受けたことだ。出来事に続く記録では、船長と船員のどちらも祝わず、憂いを交えた深い安堵の感情を示している。艦隊の半数が渦巻く波に失われたことも、気分を高揚させる助けにはならなかった。
恐怖と喪失にもかかわらず――あるいはまさにそれが理由で――男爵提督と生き残った船長たちはシストレス諸島に帰還し、全旗の小島で友愛協定に署名した。この文書は各船長と各種族に、和平と協調を誓わせるものだった。出席者全員が、シストレス諸島をタムリエルの勝利の記念碑に、そして大陸規模の団結の象徴にするという決意を抱いていた。もちろん、喉元過ぎれば熱さを忘れるものである。人々はその後遠からず、元のように小競り合いを始めた――特に正道戦争が有名である。だが短くきらびやかな瞬間、タムリエルの人々は一致団結し、共通の敵に勝利したのである。
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