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書籍

北部の王宮都市、ショーンヘルム

第39代モンクレア男爵、ワイロン卿著

マルクワステン・ムーアとショーンヘルムの高地に住むブレトンの民には、繰り返し物語に語られる長い歴史があり、誇るべき事績には事欠かない。伝説の時代にあった「巨人族の捕縛」、「太陽が死んだ年」の「ウィルド・ハグの粛清」(これにより、ムンダスの空という空がマグナスを取り戻した)、「グレナンブリア湿原の戦い」における「モンクレア騎士団の突撃」(しばしば誤って「ショーンヘルム騎士団の突撃」と呼ばれる)等々…

こうした波乱万丈の歴史を経ながらも、終始リベンスパイアーの民草は幸運であった。恐怖が支配する時代も勝利に沸く時代も、常にモンクレア家の当主によって巧みに導かれてきたからである。

モンクレア家の当主が常に天命を授かりショーンヘルム王としても君臨してきたかというと、必ずしもそうではない。しかしながら、モンクレア家が備える数多の美徳のなかには謙譲の精神もまた含まれる。ことを丸く収めるために、歴代の当主たちが自分よりも王位を主張する根拠が弱い者たちに、自ら進んで即位の権利を譲ることも少なくなかった。この謙譲の精神を発揮しすぎたことによって時に悲劇が起きたことは、我が父にして第38代モンクレア男爵たるフィルゲオンの例が、悲しくも証明している。

ブレトンの歴史を学ぶ者であれば誰しも知るとおり、レマン皇帝亡きあとの最も偉大なショーンヘルムの君主といえば、「グランデン・トールの戦い」で我が軍を率い、第二紀522年より北部を治め、在位のまま同546年に身まかったハールバート王をおいて他にない。ハールバートはブランケット家の出で、第21代ブランケット伯爵であった。そして妃には、モンクレア女伯爵イフィーリアを迎え入れている。ハールバート王崩御のみぎり、正嫡のフィルゲオン王子はわずか14歳と幼く、その王位継承権にはモンクレア家の後ろ盾があったにもかかわらず、ブランケットとタムリスの両家はフィルゲオン王子の異母兄にあたるランセル王子を支持した。ランセル王子はタムリス家の血筋に連なる病弱な女性とのあいだに生まれた庶子であった(ドレル家は例によって争いから距離を置き、どちらの候補に肩入れすることも拒んだ)。

ランセル王子がフィルゲオン王子を抑えてショーンヘルムの王位に就くまでに、どのような裏工作が行われていたかは、あまりよく知られていない。若きモンクレア男爵の顧問官たちは(男爵の母君はハールバート王よりわずか2年早く逝去していた)、正嫡であるフィルゲオン王子こそが王位の正統な継承者であると主張した。これには、かの有名な「ブレトン出生録」の補遺による裏付けもあった。その補遺は、「マウント・クレール家」こそがショーンヘルムの王統であると明言していたからである。複数の王位請求者たちの正統性を審議するため北部評議会が召集されたが、この審議が続いているさなか、モンクレア家の顧問官たちはブレトン出生録補遺が紛失しているのに気づく。一方のランセル王子は、長らく行方知れずになっていたという(いかにも胡散臭い話だが)「ディレニの勅書」なる古文書を持ち出してきた。それには、リベンスパイアーにおける「ブレトン王家の代理人」として、ブランケット家が指名されていたのである。

やがて評議会で投票がおこなわれ、ランセル王子が僅差で勝利をつかみ、ショーンヘルム王ランセルとなった。フィルゲオン王子の顧問官のなかには一戦交えても王位を争うべきだと主張する者もいたが、若い王子はこれを拒み、ただのモンクレア男爵となる道を選んだ。

そのような謙譲の精神が、どれほど裏目に出たことか! フィルゲオンが評議会の決定に唯々諾々と従った結果どのような事態を招いたか、我々はみな知っている。すなわち、566年の一連の悲劇、そして、第一次ダガーフォール・カバナントに対する反乱である(我々にとっては恥ずべきことだが、この反乱は「ランセルの戦争」として知られる)。標準的な歴史によれば、モンクレア、タムリスはもちろん、ドレルまで全ての家がランセル王の召集に応じ、エメリック上級王と南部を敵にまわした彼の致命的な戦争に兵を出したことになっている。このとき、ランセルの掲げる大義の正当性に確信が持てなかったモンクレア伯爵フィルゲオンが、ランセル王とエメリック王に対して、両陣営のあいだを取り持つ和平特使になろうと申し出たことはあまり知られていない。これに対してエメリック上級王がどのような返事をしたかは歴史の闇に埋もれてしまったが、ランセル王が激怒して言下に拒絶したことはよく知られている。我が父は再び異母兄に服従し、結果、モンクレアの騎士たちは滅びる定めにあったランセルの軍に加わったのであった。

ランセル王が陣没すると、リベンスパイアーはたちまち混乱状態に陥った。ショーンヘルムの王冠は「裏切り者の岩山の戦い」で行方知れずとなり、ランセルを玉座につかせるために決定的な役割を果たした「ディレニの勅書」もそれ以来目にされていない。ランセルの死によってブランケット家の血筋は途絶え、以来、ショーンヘルムの玉座は空位が続いている。リベンスパイアーは現在、三者連合の北部評議会によって治められている。評議会は北部諸州の平和と秩序を維持すべく誠心誠意努めてはいるが、本音が許されるならば、彼らの努力が充分だと言う者は誰もいまい。ショーンヘルム、および北部には王が必要なのだ。

そもそも、なぜ北部に王がいてはいけないのか? 腹蔵のないところを言わせてもらえるならば、モンクレア家伝統の謙譲の精神はひとまず、いかに残念であろうとも脇に置いてこう言わねばならない。モンクレア男爵ワイロン卿たる私こそが、ショーンヘルムの玉座につくべき正統なる継承者なのだ。我が祖父はハールバート王その人であり、私はその正嫡の系譜に連なる直系の後裔に他ならない。これは、北部広しと言えども、私の他に誰一人掲げることのできない主張である(このことはまた、ブランケット家の領地を継ぐべき唯一の存命相続人たらしめてもいる。当該領地の大半は不公正にもタムリス家とドレル家によって分割され… いや、これ以上は言うまい。謙譲。常に謙譲の精神を忘れてはならないのだから!)

さらに言うならば、この決定的な局面において、次の事実を公表できることを幸運に思う。すなわち、長らく行方知れずだった「ブレトン出生録補遺」が、モンクレア家の歴史家によって発見されたのである。その中から、重要なくだりをここに引用しよう。

「… 当時シャーン・ヘルムとその隣接地域においては万事が秩序の内にありしことに鑑みて、いと気高くも高貴なる… (判読不能)… はマウント・クレール一門に… (判読不能)… 並びにシャーン・ヘルムの統治… (判読不能)を永久に付与せんとする。かくあらしめよ」

リベンスパイアーの民に次ぐ。モンクレア男爵ワイロン卿は自らの務めを果たす用意がある。

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