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書籍

夢歩き

モーンホールドの学徒レイナルドによる考察

彼らは夢歩きと呼ばれている。簡単な呪文を1つ唱えるだけで、他人の夢の中に足を踏み入れることができる者たちだ。自分の最も暗い欲望、最も不埒な夢想、本当の自分自身、そういったものの一切合財が、夢歩きにかかれば開いた本のように丸裸にされる。かけがえのない思い出も、前夜の宴の残飯のように漁られ、丹念に改められてしまうのだ。

夢を歩く者たちは、デイドラ公ヴァルミーナに忠誠を誓っていると言われる。ヴァルミーナが支配する次元「夢中の歩み」に入る能力を得るため、魂を売り渡したのだ、と。この説の真偽を云々することは私の手に余る。ただ、夢歩きの技とヴァルミーナの司祭が行う秘蹟は、気味が悪いほど似通っている。

私が確認できたのは、夢の状態への入り方が違うということだけだ。ヴァルミーナの司祭は錬金術の調合薬を一滴だけ必要とする。最も優れた錬金術師の手で用意された水薬だ。これに対して夢歩きは、そういった薬を必要としない。その代わりに魔法を使うのだが、それは誰に教わったわけでも、何らかの相続手続きによって譲り渡されたわけでもない。純粋に天与のものに思える。彼らはデイドラ公の祝福を受けたのだろうか? それとも、彼らの両親が生まれてくる子供にこの力を授けようと、何らかの秘儀を執り行ったのだろうか? 誰に聞いても本当のところはあやふやだし、人によっても言うことが違う。

しかし、夢歩き自身はどうなのだろうか。彼らは何のためにこの力を使うのだろう? 想像してほしい。他人の夢に侵入することで、どんな大混乱が起こりうるか。考えただけで恐ろしくなる。

それでも、私が会った夢歩きたちは、みな親切で優しかった。彼らは他人を助けるために自分たちの力を使う。苦い記憶を消し、最も優秀な治癒師でさえ癒せない精神の病気を治す。単に相手の夢に触れるだけで、信じられないような奇跡を起こすのだ。なぜ私にそんなことが分かるのかというと、夢歩きがその力を使うところを、実際にこの目で見たからだ。

私の妻と子供たちはナハテン風邪を患った。さんざん苦しんだすえ死に至る、恐ろしい病だ。妻子をなくすと同時に、私は生きる意味も失った。ところが、そんな私をある夢歩きが憐れみ、チャンスをくれた。家族を失う苦しみを忘れ、家族を思い出すチャンスを。喪失の痛みから解放され、病気にかかる前の家族を思い出すチャンスを。幸せと愛を思い出すチャンスを。

その夢歩きは私の夢の中に入ってきた。目覚めると、私は穏やかな気持ちで満たされていた。何もかも大丈夫だという安堵。この先の人生を生きていけるという自信。私は礼をしたかったが、夢歩きはすでにいなかった。彼にはそれっきり会っていない。

夢歩きの正体がなんであれ、また彼らが結局のところ誰に仕えているのであれ、私は恩義を忘れないだろう。もっとも、だからといって、私の心の底にわだかまる恐れが消えるわけではない。はたして苦しみを取り除いてもらったことは正しかったのだろうか? 記憶こそが、我々を唯一無二の存在たらしめているものではないのか? 記憶が改変されてしまった私は、要するに別の誰かになってしまったのではないのか? これではまるで、苦悩の後釜に恐怖が居座ったかのようだ。はたしてどちらが良かったのか、私には分からない。

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